【40歳】【50歳】典型には、ならない
今日の一歩
守りに入らず、新しいことを試して進化しつづけよう
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最近、意識して新しいことをするようにしている。
今までずーっとこうしてやってきたから、と言う理由だけでやってきた行動を思い切って変えてみたり、新しいものを試したり
「今までやってきたこと」を習慣というのよね...それが国だと文化に、人だと人格になる
勿論、なりふり構わず新しいものに飛びつけ、というのではなくて
今迄の、40年以上の人生で大切に積み重ねてきた、または選んできた、変えるべきではない大切な習慣もある
それらは大事にしつつも、守りに入りがちな自分の意識を柔らかくすること
紙・ペンを使わないで、全てデジタルでやってみる
何気なく飲んでいたコーヒーではなく、お茶にしてみる
カジュアルから一変、ちょっとドレッシーなワンピースを着てみる
美容院や髪型を、変えてみる
いつもとは違う集まりに、参加してみる
快適ホテルじゃなくて、キャンプに行ってみる
些細な事ばかり
でも、言うのは簡単だけど、やるのは結構難しい!
アラフォーでこれだと、アラフィフなんてもっと大変だろう
腰も重くなってるし、「別に今迄のやり方でも支障はないじゃない」「めんどくさい」「何で今さら」っていう考えが一番初めに出てくるのが40代以降
プラス、「これが私のスタイルなの」「この年でこれやるの?」っていうプライド
そして更に、子育てやら介護やら仕事に忙しく、体にもガタが出始める
大袈裟ではなく、40~50代は簡単にはいかない
でも、その重力をえいやと押しやる
新しい事や、今までとは違う方法を試してみると...
- 新鮮な感覚が得られる(若返る)
- 偏見や思い込みが改められる(謙虚になる→感謝が出来る→幸せを感じる)
- 新しい可能性に触れることが出来る(特にIT系)
この感覚が、自分の中に新鮮な風を起こしてくれる
こういう経験をしている時って、他人のことが気にならない
新しいことを味わうのに集中しているし、自分が自分の時間の主役、そして、今を生きている
他人の人生が自分のそれより気になった時点で、【おばさん】確定なので
これは何よりのアンチエイジングだと思う
若い頃は何をするにもこういう感覚だったなあ...
自分が主役でない人生など、10代・20代、人は普通考えない
40代以降になると、自分がやることは脇役が多い
ダンナ、子供、新人など、支える人や面倒みなくてはならない人が多くなるから
プラス、何をしてもさらっとしれっとこなせてしまうので、味わいがない
それらが、かたーい頭や習慣になる
精神的に老けていた、と気づかされる
変化が少なくなるにつれて、人はたるむので、澱んでくるみたい
新陳代謝がない状態だから
私の職場は、殆どが20~30代の若者ばかりだ
嫌でも自分とはかけ離れた話題やファッション、雰囲気や感覚などに触れることが出来る
そして、若者は、何といっても「これから」を考えているので、人生に前向きで肯定的
昨年転職したばかりの私は、年齢的にはとっくにお局世代だけど、幸いにも(?)仕事に関してはまだまだ見習いレベルなので、皆に助けてもらっているし、新入社員みたいな感覚でフレッシュな時を過ごさせてもらっている
勿論、外国なので、歳は関係なくフレンドリーな職場だからこそなのだけれど、
それでも、40過ぎてこの若い集団と一緒にいられるのは、実りが多い
まだまだ若かった頃に一時期勤めた日系の職場では、40~50代の日本人が沢山いた
そこで、世間一般のアラフォー・アラフィフの傾向(日本人限定)というのを大いに見せつけられた
まず驚いたのが、40~50になると、外見も内面もだらりと崩れる人が圧倒的に多くなること
勿論、人生の先輩方として彼らから何かしら学ぶこともあったし、素敵な人やカッコいい人もたまにはいた
でも、大多数は「こうはなりたくない」という反面教師
ボーっと生きていたら、自分も一般の波に巻き込まれて、気が付けば「あちら組メンバー」だろう
自分はどうなるべきか?という問いを突き付けられたようで、当時は真剣に今後の在り方を考えた
アラフォー・アラフィフの皆さんは、良くも悪くも「自分のやり方」や「自分の考え」や「自分の世界」というのを抱えていた
ランチタイムのテーブルでは、自分に関する自慢やアピール、若いものへのお小言・お説教、昔話、会社の悪口や不平不満、体の不調、そして、人のうわさ話やひがみコメントが多かった
そうでないポジティブな方でも、何となく「あきらめ・守り」な静モード
または逆に、野心ギラギラで「出来る男・女」というよりも「アブラギッシュ」なイメージが怖い動モード
それだけ、40代・50代というのは、小粋に生きるのが難しい年代なのだろう
ランチタイムは、ハッキリ言って苦痛だった
そして、全体的にこの層の人達に際立って見えた傾向が、「変化・新しいモノへの拒否」だった
パソコンは難しいし、使えなくても別にいいです...
これでやってきて支障はなかったらから、これからもこれでやりましょうよ...
若い頃とは違って疲れるし、今は家族もいるし、ムリですよ...
みっともないですよ、この歳でそれをするのは...
今、年齢だけ言えば、彼らと同年代になった私
とうとう来たか、という感じ
これからが、勝負
典型には、ならない
「自分」を確立しつつも、柔軟性と変化を恐れず、しなやかに生きていこう。
アラフォーである今だからこそ、出来るはずだ。
【50代男性】家庭があっても、現役セクシー
好きな(お手本として)女性の有名人は山程いるけれど
実は、男性は余りいない。
強いて言えば、3人のみ。
昔も今も、私が「イイ男」と思うのは、この3名のみだ。
稲葉氏(右)↓
氷室氏↓
で、3人とも、もう50歳をとっくに超えておられる。
アーティストとしての実力が衰えていないのも凄いけれど、
自分がアラフォーになった今、改めて尊敬するのが、あのルックス、体。
昔から変わらないどころか、更に引き締まっている。
勿論、強い美意識と、筋トレと、食事制限の賜物。
ハリウッドセレブのブラピは横に置いておくとして(笑)
稲葉さんと氷室さんは、家庭円満で変なスキャンダルとは無縁だ。
健康的で安定した生活がバックにある余裕が、
既婚者として私が彼らに憧れる理由でもある。
ストイックで男らしく、しかしどこかセクシーなこの二人。
家庭もある50代の男性が、こう形容されてちっともおかしくないなんて。
世の中、50代ともなればお腹が出て体も精神も弱気に崩れてくる人が90%だろうに、
見られる仕事だから、という事を考慮に入れたとしても、やはりスゴイと思う。
さて、女性が、同じように昔のレベルをキープまたは昔よりスゴイ!となれるか?
男性より難しいのは明白だろう。
一昔前だったら、想像もつかなかっただろう。
それこそ、私が敬愛する寺田恵子さんのように、
結婚せずに子供も産まずに、ひたすらロックな生き方を極めるなど、
世間から大幅に外れた生活をしないと無理であったのでは。
でも、最近、不可能ではないような時代が来ている気がする。
ストイックで女らしく、しかしどこかセクシー。
こう形容されてちっともおかしくない、家庭もある50代の女性...
こういうスゴイ女性が、今後もっと増えるといいね。
まずは、自分が成ろう!
40代の焦りには、筋トレ
ティーンエイジャーの頃
まだ自分が何者でもない焦り
不公平な人生というものへのムカつき
やらなくてはいけないことだらけの毎日への疲れ
ホルモンバランスの乱れから来るイライラ
将来への不安と期待からくるソワソワ
これらの重圧に負けそうになっていた私を、
健全な方法でどうにか成人まで導いてくれたのは、スポーツだった。
アラフォーの今
まだ自分が何者でもない焦り
不公平な人生というものへのムカつき
やらなくてはいけないことだらけの毎日への疲れ
ホルモンバランスの乱れから来るイライラ
将来への不安と期待からくるソワソワ
これらの重圧に負けそうになっている私を、
健全な方法で導いてくれるのは、やはり筋トレだと確信している。
当たり障りのない話題
学生の頃、登下校中などのお喋りの時など、女子が2,3人集まると、流行っているドラマの話ばかりするのにうんざりしたものだ。
そういう私も、ドラマの1つや2つは見ていたので(90年代に流行ったトレンディードラマ、というやつね 笑)適当に話を合わせていたけれど、
そんなことより、政治とか社会問題とか、そういう人生における本質的な話題で語り合いたいなあ、などと内心考えていた。
変なところで真面目な学生だったのだ。
可愛いもの、美味しいもの、ドラマ...といった、当たり障りのない話題のお喋りは、正直、苦手だった。
時間のムダ、意識のムダ...と、一人で勝手にイライラしていた。
どこかで、アメリカのティーンエイジャーは仲間内でも自然に政治の話をする、等というエピソードを聞いて、「さすがアメリカ、意識が高いなあ」と思っていた。
逆に、日本はお子様文化だなあ、ダメだなあ、と感じていた。
さて、その後、ふとしたことから日本を出て、海外に移住した私。
今は、日本や日本人とは関連性のない、外資系の企業に勤めている。
様々な国籍の同僚が集まるこの職場での、ランチタイムの話題は、何か?
...ズバリ、流行っているドラマ、だ(笑)
(勿論、それだけではないけれど)
政治や社会問題が話題になることもあるけれど、ごくわずかだ。
なぜかというと、これをすると、意見の対立が避けられないからだ。
例え、大人同士、妥協をしながら思いやりを持って話すことが出来るとしても、
必ず誰かしらが嫌な思いをしたり、気まずい雰囲気になるだろう。
前職で、選挙の時期にかなり辛辣な発言をした同僚をきっかけに、
同僚同士での言い争いがエスカレートした場面に出くわしたので、今は良くわかる。
モノ(商品)、美味しかった食べ物、ドラマ...どんな意見を言っても、当たり障りのない話題といえば、結局これらになる。
これは、世界共通だ。
私は、上記の学生時代のエピソードを思い出し、感慨深い気持ちになった。
勿論、政治や社会問題に意識を向けることは大事。
意見交換も、当事者意識も、社会に属するものとして、避けてはいけない義務だろう。
そして、年がら年中ドラマやら可愛いものやらの話をするのは、やはり時間の浪費だ。
しかし
「当たり障りのない話題」というのは、案外周りを思いやった結果なのかもしれない。
人生、一見ムダと思えることが、実はそうではないこともある。
表面だけ見てすぐに「良い・悪い」を決めつけるものではないな、と思った。
くびれ
自宅で気軽にできる筋トレ、というのも悪くないけれど
私は断然ジム通い派だ。
なぜなら、
1.まとまった時間(1時間半)が取れるのは、1日のうちランチタイムのみ
2.家にいると、家族や溜まった家事を無視できない
3.ダンベルやマットなどの道具がない
4.テキトーになるし、効果が出にくい
5.ジムのほうが雰囲気が出る
だからだ。
で、この5「ジムのほうが雰囲気が出る」が、結構大事なポイントだったりする。
(私の場合)
ジムに通う自分が何となく誇らしいし(←いいんですよ、自己満足で 笑)
ムキムキのマッチョさんや、腹筋が割れているOLさんに混じると、
「自分も彼らと同類!」みたいな錯覚が出てきて(←いいんですよ、勘違いで...笑)、やる気のレベルが段違いなのだ。
人は、環境に大いに影響されるという。
勿論、選べない時もあるし、
選べない状況から忍耐力や人間性を磨く、という手もあるけれど、
それとは別に、
誰と同じ空間を共有するかを選べる場面では、
自分の憧れや目標に近い人達を選んで、その中に身を置くといい。
何もしなくても、そういう雰囲気が出てくるから。
見ているだけで、影響されるから。
そして、そっちに向かって自然と自分も動いていくから。
ジムに通う人ような人達は、ほぼ間違いなく、ポジティブだ。
そして、言うまでもなく健康や美容への関心が高く、
こちらが筋トレ常連者だと分かると、「仲間」と言う感じで見てくれる(私は恥ずかしがり屋でコミュ障なところがあるので、地味に嬉しい...笑)。
会社の近くのジムに通っているので、
同じくランチタイムにジムに行く同僚とも自然と親しくなれる。
連れだってタバコを吸いに喫煙所まで行く愛煙者の同僚や
アフターファイブで飲んだくれて会社の愚痴を言っている飲兵衛の同僚とつるむより
こういう人達に囲まれているほうが
人生が建設的になるのは言うまでもない。
さて、掲題の件。
私は目下、筋トレを通じてくびれをつくることを目標としている。
更衣室で着替えている女の子達を盗み見できるのも、ジム通いの特権。
(変な趣味ではありませんよ 笑)
人種的な要素も多分にあるけれど(東洋人って、本当に寸胴...涙)
皆さん素晴らしいくびれの持ち主だから。
日本人的感覚から言うと完全におデブさんの部類に入る女の子でも、
あのくびれのおかげで、「グラマー」になる、この羨ましさ。
見本として、いつもじっくり見せてもらっている。
いつも見ているし、彼女たちと筋トレしているので、
何となく自分でもくびれが出来てきているような気分になる。
侮るなかれ、環境とイメトレ。
科学的にもその効果は実証されているらしい。
ジム通いは、いいことばかり。
【生活感のない女】
「生活感がない」女とは、どういうヒトだろう?
ほめ言葉か、けなし言葉か...
解釈の仕方は色々あると思うけれど...
私自身は、「貴方は生活感のない女性だね」と言われたら、凄く嬉しい。
20~30代だったらちょっと微妙だけど、
40以上になってこれを言われたら
「貴方は所帯じみておらず、誰かの妻や母である前に、一人の女性として見えますよ」ということだと、都合良く解釈できるじゃない?(笑)
もはや最高のほめ言葉の一つだ。
生活感がない、とは、生活のごたごたや所帯じみた匂いがしない女...
何とも憧れる。
日常のゴタゴタ感にまみれて、
生活感どこじゃない、生活臭くなりがちなのが、普段の自分だからね!
欲を言えば、「ぱっと見はちっとも生活感のない女、でも、実は家事・育児なんでもこい、の肝っ玉母さん」になりたいな。
そのギャップが、最高の魅力になると思うから。
「肝っ玉母さん」というけれど、別に結婚してなくても、子供がいなくても、関係ない。
要は、40ぐらいになったら、いざとなったら男でも子供でもどーんと面倒みれますよ、という母親のような包容力を持つ女、ね。
ところで、肝心なのは、「いざとなったら肝っ玉」っていうところ。
見かけから「肝っ玉」なのは、論外!
(肝っ玉かあさんを知らない方はこちら↓ 笑)
それだと、ただの「お母ちゃん」か「おふくろさん」道まっしぐらだ。
私に「お母さん」を感じる必要があるのは、私の子供だけでいい。
世間一般にそう思われる必要はない。
見た目「生活感がない」、でも、中身「肝っ玉」を目指して、がんばります!
時が良くても悪くても
「時が良くても悪くても、すべきことを淡々とする」
これがどれだけ難しいか。
知識として頭で納得するだけと、実際に実行できるのは、全く別の次元の話。
私の場合は、これが曲がりなりにもなんとか出来るようになったのは、親になってから。
選択肢がなく、やるしかなかったから。
子供がいない頃は、準備が完璧に整っていないと動かない人間だった自分。
で、何かをする時には完璧にやりこなさないと、満足できなかった。
感情や体調や状況に振り回されて、気が向かない時にはやるべきことは放っておいて、お酒を飲んでふて寝したり、馬鹿食いしたり、落ち込んでうだうだしたりしたこともあった。
万全なコンディションじゃなきゃ嫌で、常に100%キレイに何かをこなしたい、とこだわっていたその昔は、精神的に子供だったなあ、としみじみ思う。
勿論100%やりたいけれど、状況的に80%ぐらいで我慢しなくてはいけない時、または、最悪の状況でも50%狙わなくてはいけない時...人は一皮むける。
別にキッカケは子育てである必要はないけれど、
こういう大変な思いをしながら、人は少しずつ大人になるのだと思う。
前述の通り、自分の思うままに生きてきた私も、子供という責任が出来たら最後、そんな優雅なことは言ってられなくなった。
赤ん坊と幼児は、過酷な課題を「え?今?」っていうタイミングで、容赦なく課してくる。
予定通りに物事が進むことは殆どない。
ベストタイミングなんて待ってたら、何も出来ないのでやるしかない。
また、どんなに「最悪なタイミング」でも、やらないという選択肢はない。
どんなに疲れていても、職場で何かあって悩んでいてブルーでも、
おむつを替え、授乳をして、寝かしつけて、泣いたら抱っこして...
ちょっと大きくなって手がかからなくなっても、ご飯は絶対に作らなくてはいけないし。
鍛えられたなあ...いや、まだ現在進行形なんだけどね。
子育ての日常の大変さに比べたら、部活の地獄の特訓なんて、軽いものだ。
(学生時代、全国大会に出場するような強豪チームで本格的に運動をしていました)
さて、これを書きながら、仕事(と筋トレ)で疲れた体にムチ打って、
猛スピードで夕飯の買い物をし、
子供と旦那が散らかしたリビングとベッドルームを片付け、
子供をお風呂に入れて、
洗濯機をまわし、
夕ご飯を作ったのに...
日中動きまくった子供は疲れていたらしく、ソファーで熟睡。
疲れたしお腹はすくし、先に食べてさっさと寝てしまいたいけれど、
何とか我慢して旦那の帰宅を待っていたら、
遅く帰ってきた旦那は機嫌が悪く、
しかも「体調悪いからもう寝る、夕飯いらん」だってさ。
誰も手を付けていない夕食テーブルを片付ける。
台所には片づけが残っている。
洗濯物も干さなきゃ...
ふー、辛い。
疲れた...
報われない...
何で私だけ?
今日全然いいことなかったじゃん...こんな辛い毎日、ずっと続くのかなあ?
どんどん思考がネガティブになっていく。
フラストレーションが半端ない。
汚れた調理器具、自室に連れて行かなきゃいけない子供...その他、やらなきゃいけないことが山積み...めんどくさい、やりたくない...
でも!
ここは修行だと思って、えいや!と踏ん張る。
ネガティブ思考を、「いやいやいや、そうじゃないって」と戒める。
がんばれ、自分!
ばーっと残りの家事をこなしてしまう。
もう寝よう!
明日は明日の風が吹く...
こうして、こういうなんでもない、でもきちんと辛いステップを一つ一つ乗り越えて、
恐らく人は成熟していくのだと信じて疑わない。
筋トレと同じで、メンタルも適度な荷重を与えていくことによって強くなるのだ。
「時が良くても悪くても、すべきことを淡々とする」
筋トレは、継続して淡々とやるもの。
一気にマッチョになる人はいない。
大人になる近道なんて、ない。
成熟に至る楽な道なんて、恐らくない。
成熟といえば、果物もワインも、熟れてたほうが断然美味しい。
どうせなら、うんと美味しい熟女目指してやろうじゃないの!